【祝福の水路として生きる】つまづいた時に見てほしい動画

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エドガー・ケイシーが伝えた最高の運命好転法【祝福の水路になる】という生きかたがあります。

まだ私も始めたばかりで、つまづきそうになることが何度もありましたが、そのたびにこの動画に助けられました!

YouTubeチャンネル『田宮陽子&西田普の部屋』の動画より【20世紀最大の霊能者エドガー・ケイシーが伝えた最高の運命好転法「祝福の水路になる」とは? ゲスト:光田秀先生 】

今回はその動画の中から【祝福の水路になる】を実践していく中で役立つヒントをまとめました。

---以下、動画より抜粋してまとめ---

神の探求を実践していった方は実際にどんな変化がありますか?

例えば、人間関係でつまづいていたとするとそれが無くなる。自由になる。

相手が何か嫌なことをしてきたり、理不尽なことを言ってきて、以前なら腹がたったり、しょんぼりしたり、落胆していたことがそういうことを選ばなくなる。

自由になるので、わざわざそういう落胆・しょんぼり・怒りなどを選ばなくなります。

自分の人生をそういうことに浪費しなくなります。そういう理不尽なことがあっても、サーっと通り過ぎるだけ。

私に何の影響もなく、私は自分のしたいことをすることができます。

嫌なことをされたり言われたりした時に、思いやりで返します。やってみると楽しいですよ。相手はびっくりします。

「あら、この人私に腹立ててらっしゃるのね、どうしたんでしょう」

「お茶でも淹れましょうか?」

と面白半分にすることもできますよ。

心のコントロールが上手になるので、われわれは巻き込まれることがなくなります。

練習して出来るようになると楽しいですよ。

光田さんは何年修練を積んでおられるのですか?

光田さん:36年かな。最初は白帯から初めて、今は五段です笑

例えば、よくあるのがお姑さんやお舅さんが嫌で、声を聞くのも嫌・来ると思うと気が滅入るっていう人も、そういう無駄な反応をしなくなります。

それは、思い出に反応しているんですよね。

昔嫌なことをされたとか、お義母さんはこういう人に決まっているとかいう決めつけをしている。もっと自由になったらどうですか。

毎度毎度、会うたびに嫌なことを言ってくる人がいるかもしれないけど、人間には自分を高めるのにふさわしい、いい塩梅の滝がくるように仕向けられている。

その滝をクリアしたならば、もう滝にはならない、自由になります。

(ひとつの滝をクリアしたら、また次のレベルの滝がくるようになっていって、人はレベルアップするようになっている)

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ケイシーは霊的な鍛錬には2種類あると言っています。

1つは、山などにこもって家族も捨てて鍛錬する方法。

2つめは、人間関係で揉まれて鍛錬する方法。

ケイシーが薦めたのは2つめの方ほう。

全員が出来る。勝手に(修行が)やってきますから。

その鍛錬のやり方を教えますから意味を知って効率的にやりましょうというのが「神の探求」です。

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私の意思ではなく

(私はこうしたい、ああしたいなどと言いません)

おお主よ、あなたの御心が、わたしの内に私を、通して行われますように。

(主はわたしに出来る最大限を要求している。どうぞあなたが良いように、わたしをお使いください)

主が喜ばれることは何だろうと考えて、それをやる。

その時、正解・不正解はない。

そのときに「これが主に喜ばれることかな」と思ったことをすれば良い。

そのとき、周りを見て響いてきたことをやる。

ケイシーは「あなた方の中で最も弱い人に為したことは、主に為したことである」と言っている。

これが、主が望まれることである。

自分の出来ることで、弱い人(困っている人)に対して助けられることがあるなら、何かなと考えてそれをやる。

私の人生をどのように使えば、神は喜んでくださるのか。自分のできる範囲でやる。

出来るか出来ないか…ではなくしのごの言わずにやる。やるか、やらないか。

最初はしぶしぶやっていても、しばらく続けていくうちに心がそちら(自分ではなく神が望まれることをやること)の方が良いと言い始める。

私が心からやりたいと思っていたのは、実はこっちだったのだ、とわかってくる。

これこそが私の心を充実させる方法だということに、納得してくる。

神の御心にかなうことというのは、実は私の魂が最も充実して喜ぶことだというのがわかる。

lose yourself in HIM

(主のうちに自己を失う)

自分を捨てていたら、過去の自分のことは全く気にならなくなる。

例えば、過去の失敗など言われても「だから?」「そうだよ」などど切り離して対応することができる。

わたしたちの魂は、(前世からの)カルマから引き継いだ傷を癒したいと思っている。(=魂の炎症、魂の傷)

でも、頭ではどこからどうやって癒したらいいのかわからない。

そこで魂は癒すため、気づかせるための環境を周囲に用意する。自分の中に怒りっぽさがある人は、怒りを表現できる環境にわざわざ入る。

「なんで私にばかりこんなに怒り散らさないといけない人ばかり集まるんだ」と思うが、その怒りは自分の中にあって呼ばれている。

例えばデリカシーのない人がきたとすると、心の中に鍛錬すべき場所をその人が表しているのかもしれない。

霊的な鍛錬をし始めると今まで以上にしばらく嫌なことが生ずる。

この現象を「カルマの洗い出し現象」という。

汚れてた洗濯物をバーっと洗うと一気に汚れがでるのと同じで、昔だったら程々の速度で洗ってたのが、急速に洗おうとしたなら急に汚れがバーっと出る。

霊的な鍛錬をすれば、必ずカルマの洗い出し現象は出る。

自分は祝福の水路になろうとすると、祝福を流したくない人が現れたりする。

例えば、忍耐を練習中には、忍耐しがたい連中が来る。

愛情を練習しようとするならば、愛しがたい人が現れたりする。

そういう時に

「何で自分にこんなことが…」

「なんでー!」

という怒りなどが出てきても祝福の水路になると決めたならば、しのごの言わずに祝福の水路になるということをただやる。

そうすると、魂の傷が徐々に癒えていく。癒えきったならば、傷は無くなり単なるひとつの過去の記憶が残っているだけで、それが私の人生にネガティブに影響しなくなる。

それどころか、それぞれの記憶意識は私の人生を高める方に助けてくれるようになる。

これは霊的な練習をし始めた人は必ず経験するんですが、忍耐を練習中には本当に忍耐しがたい人に遭遇するんです。

なんでこのタイミングで、って思うんですけどそこですよ。踏ん張りどころなの。

例えば、デリカシーのない人に会ってデリカシーのないことを言われる。今までだったらカチンときて冷たくあしらったかもしれない。

でも今回は思いやりを返す。

あと残っているのは「なんで⁈」っていう気持ち。

でもそこは

「主はきっとこれを喜ばれただろうな」

「主はきっと私のこのやりかたを喜ばれたに違いない。それは喜ばしいことだ」

と切り上げる。

なんか自分が負けたように思ったり、悔しい気持ちが出てきたりするが…負けてはいない。

主が喜ぶことをできるようになったのだから。

光田さんの言い方で言うと「一本〜!」ですよ。

自分に「一本!」

「主よ、私は今日一本とることができました!」

「あなたに教えていただいた技が見事に決まりました!」

こうすることによって、自由度が高まる。

だって、悔しいと思うのはデリカシーのない人にやられた状態ですからね。

デリカシーのない言葉に時間を費やしているのは自分がいる証拠。

自分がいるから「ああ、いやだ」と思う。

嫌だと思う自分もろとも主のうちに捨てるんですから。

嫌だと思っている自分に気づいた瞬間に「あら、こんな所にこざかしい自分がいたわ」とこざかしい自分をバサっと切り捨てる。

私(光田さん)は実際に刀を抜いて自分を袈裟がけにかけて切ったんですよ。

「光田はこれで死にました」と毎回言うんです。

そしてその都度、ただちに主に望まれていることを考えてやる。これの繰り返しです。

まったく武道と一緒でだんだんと上達するんです。

最初のうちは心の揺れがあったかもしれない。それがだんだん練習していくうちに1時間→10分→1分→数秒 と時間が短くなってゆき、今は1秒以内に決着がついている。

「悔しい」と思う自分がいたら、こんな所にこざかしい自分がいます。

これは私にとって時間がもったいないこと。

自分の人生にとってもったいないこと。

こんなことに私の時間を費やしているヒマはありません。

そんなヒマがあれば霊的理想に向かって進んでいます。

そうすると私たちは自由度が高まります。

自分の人生の充実度が上がっていることを経験すると、自分の魂が喜ぶ。

自分が幸福を感じるようになる。

なぜなら、魂が今生きるべき人生を生きている最中であることを実感するから。

今回生まれ変わってきた意義を自分がちゃんと果たしているという実感が生ずる。

それは自分自身に深い喜びを与えてくれる。

わたしがさまざまな形で接するすべての人に対して、今日いま祝福の水路としてください。

「私から相手に喜ばしいものが伝わりますように。

私を通して相手に神の祝福が流れますように。」

そういう人を宇宙はちゃんとそのように扱ってくれる。

キリストの言葉で言うなら「燭台を床に置く人はいない」そのように扱われるようになる。

例えばSNSであっても、見た人読んだ人になんらかの祝福がありますようにと思って書いています。

ニュースやTVで見たことに、ムカっときたり懲らしめてやりたいというようなことがあった時は、すぐ横に主がおられたとして「私はこれに対してどういう風に考えれば良いですか」と問い合わせてみる。

その時、主は憎め、怒れ、暴言を吐けとは決して言わないと思う。

それよりも主が我々に望まれるのは、この状況であなたが正義だと思われることをあなたが行動してみたらと言われるかもしれない。

でもそれはエゴでやっているわけではなく義憤でやっていること。

ケイシーは義憤はしばしば起こすべきだと言っています。

ただ、行動するときにそれが絶対的な正義だと考えてはいけない。

相手を絶対的な悪だとも考えないこと。

自分が考えられる正義で行動したならば、神はそれを良しとしてくれる。魂も鍛錬される。

まず、やってみる、ですよ。練習です。

練習し続ける。練習すれば技のキレが違ってきます。

霊的な向上は最上の楽しみ。

身体にも心にも良い。

くよくよすることがなくなる。

人生の悩みから自由になります。

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動画からまとめたものは以上になります。

【祝福の水路】として生きようと練習中の方のお役に立てると嬉しく思います。

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