エドガー・ケイシーの言葉で「祝福の水路」というものがあります。
一部を引用させていただきます↓
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わたしの意志ではなく、おお主よ、あなたの御意(みこころ)が、わたしの内に、わたしを通して行われますように。
わたしがさまざまな形で接するすべての人に対してわたしを今日、いま、祝福の水路としてください。
わたしが入るときも、出るときも、いつもあなたがわたしに望まれるものと調和していますように。
エドガー・ケイシー『神の探求』第一章の祈りの言葉より
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神さま(=大いなる存在と言いかえてもOK)が喜ぶようにわたしをどうぞ使ってください。
神さまが喜ぶこととは…自分はもちろん、周りの人もみんなが喜ぶことです。
日常のほんとうにささいなことに対してでも
「自分は神さまが喜ぶような選択をしているかな?」
「周りの人に喜びを与えているかな?」
「周りの人が喜ぶ言葉を使っているかな?」
と考えて行動することです。
「祝福の水路として生きる」には自分の「エゴ」は無くさなければいけません。
祝福の水路として生きる
の反対が
自分のエゴを第一優先で生きる
ということかなと思いました。
よりお金が多く稼げるほう、
人から立派に見られるほう、
カッコよく見られるほう、
より知的に見られるほう、
高級なものを身につけたい、
すごいと思われたい、
尊敬されたい、
立派な家や車を持ちたいなど
自分をより素晴らしく見せたいという気持ちを優先して生きるのが、自分のエゴで生きるってことになります。
でもこの世の中、上に書いたようなこういう基準で選ぶのが当たり前じゃないか、とも思えてきます。
ケイシーの言葉を借りると、この世の経済は「狂っている」のだそうです。
なぜなら、エゴで生きるのが「当たり前」と言われる世の中だから。
でも、本来人はみんな祝福の水路として生きると喜びを感じ、幸せを感じるようにできています。
みんな、幸せになるためにいいモノやお金を得ようとしてるのに、それってエゴからだから結局は苦しんで当たり前…喜びも感じられない…っていう負のループです。
祝福の水路として生きるには
「もう自分はエゴで生きないぞ!」
という覚悟は必要ですが難しいテクニックは必要ないように思います。
むしろ簡単なのでは?
- 人に優しく
- 自分に優しく
- 地球に優しく
シンプルにこれだけで神さまが喜ばれる「祝福の水路」となれるのでないでしょうか。
わたしは幸運なことに笑
地位も名誉もお金も…さほど持っておりません。
それらを得ようとしてがんばったりしたこともありますが、
うまくは進みませんでしたのでかえって「祝福の水路として生きる」という言葉を知ったときに「これだ!」と嬉しく思いました。